青いくりを見つけた。
この状態だとトゲトゲしたイメージも柔らかくなり、まりものような可愛さを感じる。
未熟という言葉は、人の至らなさを示すときに使われる事が多いので、
悪いイメージのほうが強いかもしれない。
しかし、まだ成長の途中にあり、この先更に充実していくと考えれば、
案外良い言葉だと思う。
自分はまだまだ未熟で、いろんな栄養を吸収できるというスタンスでいる人は、
成長することをやめないのだろう。
僕も青いくりでいたいものだ。
この状態だとトゲトゲしたイメージも柔らかくなり、まりものような可愛さを感じる。
未熟という言葉は、人の至らなさを示すときに使われる事が多いので、
悪いイメージのほうが強いかもしれない。
しかし、まだ成長の途中にあり、この先更に充実していくと考えれば、
案外良い言葉だと思う。
自分はまだまだ未熟で、いろんな栄養を吸収できるというスタンスでいる人は、
成長することをやめないのだろう。
僕も青いくりでいたいものだ。
頬を撫でる風、茜色に染まる雲、涼し気な虫の声、するりと夏の空気に寂しさが入り込む。
一年で一番情熱的な季節が去ろうとしている。
移ろいゆく季節の中で、今年の夏は僕の中でひときわ輝いている。
いろんな場所に出かけた。
一人旅に慣れきっていた自分にとって、
誰かと思い出を積み重ねることは新鮮で、そしてかけがえのない体験となった。
アルバムを見返すと、笑顔と愛おしさが溢れている。
次はどこに行こうか。なにをしようか。
そんな話をする時間が楽しくて仕方がない。
たくさんの幸せをありがとう。
嵐の前の静けさか、我が家の周りは穏やかな空模様だ。
一昨日、友人から久しぶりに連絡があった。
毎年この時期には顔を合わせキャンプをしたり、写真を撮りながら歩いたりしたものだ。
ここ2年ほどは、感染症や生活環境の変化でなかなか会えない日々が続き、
ネット上の連絡に留まっていた。
半年ぶりの会話だったが、いい意味で特別感はない。
趣味の話、近況の報告、とりとめのない話題に自分たち3人が過ごした時の長さを感じる。
5年後も10年後も、おっさんになったことを嘆きながら、
同じようなことを話しているだろう。
活発、開放感、元気。昔の自分としてはこんなところだったのだが、
最近外で作業をすることが増えてイメージが変わってきた。
危険。その一言だ。
滴る汗に焼けるような日差し。
こんな書き方をするとなんだか安っぽい歌詞のように聞こえるが、
当事者としては命の危険を感じる描写である。
子供の頃に夏を楽しめたのは、単純に元気がありあまっていたからなのか。
それとも半袖短パンと夏休みのおかげだったのだろうか。
飼ってる人はよく分かると思うが、ねこは意外と表情が豊かだ。
犬ほどわかりやすくはないのだが、
尻尾や耳、目を見ているとなんとなく今の気持ちがわかったりする。
済ました顔をしたまま、全身で甘えられると構わずにはいられない。
そんなギャップに人類は負け続けてきたのではなかろうか。
昨日、それを強く実感することがあった。
日々の心がけや、偶然の出来事、そして様々な人の助けが重なり、
素敵な方と縁を紡ぐことができた。
この一連の流れを振り返ったとき、
そうなることが決まっていたように思えてならなかった。
まるで、テーマパークのアトラクションのようだ。
事前に仕掛けや演出のタイミングは決まっている。
しかし、乗っている本人たちはそれを知らないので、
事あるごとに驚き、悲しみ、喜び、そして最後には幸せな顔で次のステージへ向かってゆく。
だれがセッティングしてくれているのか、それはわからない。
ただ、直接感謝を伝えられないことがもどかしい。
だからこの場で記そうと思う。
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。
やっと梅雨入りしたようだ。
湿り気を含んだ冷たい風が駆け抜け、青々とした稲が白波のように揺れている。
雨こそ少ないが、吹く風はこの時期らしさを十分にはらんでいる。
大学生の頃はこの時期になると毎年遠距離ツーリングに出かけていた。
五月の連休と夏休み期間の間ということもあり人が少ない。
人混みが苦手な自分にとっては旅向きの季節なのだ。
社会人生活に入り連休を取るのは難しくなったが、年に一度くらいは漂白の旅に出たい気持ちがある。
決めるのは方角くらいであとは適当が面白い。
今年はどこかへ行けるだろうか。
PENTAX MEを持っているのだが、
発表のムービーを見たら欲しくなってしまった。
なんだか海外のユーチューバーがアップしている作例もいい感じだ。
ボーナスの行き先が決まってしまったかもしれない。
一方梅雨の気配は全く感じられない。
高気圧とやらの仕業だ。
雨音が恋しい。
どんよりとした雲、カエルの鳴き声、濡れた土の香り、水滴をまとった草花たち。
この時期には当たり前だったものが、今では少し遠い風景になってしまった気がする。
見慣れた風景も、放っておけばいつの間にか過ぎ去り消えてしまう。
カメラを向けてシャッターを切ればそんな景色も形にして保存できる。
「写真を撮る」という行為は、景色と感情を共に切り取り保存できる素晴らしい記録方法だ。
だからこそ、写真の旬というのはそれを撮ったことを忘れた時期だと思っている。
そして見返したときに被写体と一緒に様々な気持ちを思い出す。
これにまさる写真の味わい方はないのではなかろうか。
去年までいまいちぱっとしない花の量だったのだが、
バラと同じ感覚で肥料を多めにあげたら明らかに多く蕾がついた。
肥料のあげすぎは良くないと思っていたが、案外そうでもないようだ。
もう少し早く咲いてくれるとつるバラとの共演が長く楽しめるのだが・・・
単体でも十分美しいのでOKです。
自分は季節の変わり目ぐらいのペースで模様替えをする。
時期は決めているわけではないのだが、振り返ってみるとだいたいそれぐらいのペースだ。
使う家具はそのままでも、使う場所が違うだけでなんとなく気分が高まる。
ついでに使わなくなったものは整理してスッキリするので一石二鳥だ。
社会人になってからは部屋にものが増えたような気がする。
これでも意識的に減らしているのだが。
人付き合いや身だしなみ、仕事のためのツールだの、必要な物も増えたからまあ仕方ないか。
ここのところ安定した生活を送っているのだが、
その安定度合いと比例して時間の進みが早く感じる。
人間は未知のものに出会ったとき、新しい経験をしたとき、時間の流れを遅く感じるのではないだろうか。
楽しいことはあっという間というが、それはミクロ的な視点であり、
より長い時間軸で見たときは逆のように感じる。
子どものときは見るものすべてが新鮮だった。
新たな刺激を処理しようと頭と心を必死で働かせる。
それ故に一種のゾーンのような、時間間隔がうっすら引き伸ばされるような状態だったのではないだろうか?
逆に大人になると目に映るものは見慣れたものばかりになる。
そういったものは処理に時間はかからない。
つまり、「慣れたもの」は体感時間を加速させる、老いへのアクセルなのではないだろうか。
こう考えると、わざと不慣れなことに挑戦する機会を作ることが大切に思えてくる。
シャワーだけでなく入浴するようにしてから睡眠の質が上がった。
逆に睡眠の量は減っている。
湯船で本を読んでいるとあっという間に時間が過ぎてしまう。
悩ましいところだ。
8時間以上眠った日とそれ以下の日では明らかに日中のパフォーマンスが違う。
ぐっすり眠ったときの無敵感は素晴らしい。
ただ、アフター5をかなり犠牲にする必要があるので娯楽の面では少し寂しい。
一部のカスタムイメージが適用されないことに気がついた。
カメラのバックディスプレイとPCモニターの色味の差かなあと思っていたけれども、
流石に違いすぎますよね、そうですよね…。
K-30を使っていたときにはカスタムイメージを全く使っていなかったから発覚しないわけだ。
詳しく調べていると、Lightroomで公式に対応されているカスタムイメージは5種。
少ない。
個人的に好きな銀残しやGOLD、リバーサルフィルムは非対応。悲しい。
昨日と今日の写真はDigital Camera Utility 5を使っている。
思った通りの色だ。
感覚で機材を使っているとこういう事が起こる。いい勉強になった。
個人ブログなのでまあ仕方ない。
最近は平日に趣味の時間を確保するための方法を色々考えている。
今は早朝に写真を撮りながら庭を歩いているのだが、さらに時間をうまく使えないだろうか。
絵の方は再開したと言っても手探り状態で、
とりあえずペンを動かしては消すを繰り返している。
明日は休日なので作品にじっくり取り組めそうだが、
平日はやることを決めて練習と割り切ったほうがいいのかもしれない。
フォトショップを起動して線を一本引いてみる。
なんとなく気分があがる。
試しに人を描いてみるとひどい出来で笑ってしまう。
だがそれでいい。
面白い。
今度の休日の楽しみが増えた。
最後にまともな絵を作品として仕上げたのは2021年の12月だ。
確かその年の5月に描き始めたのだった。
このブランクと日数の浅さを考えると実質ゼロからのスタートするのと変わらない。
3年弱の時間が自分の表現をどう変えたのか見てみよう。
長期的なプロジェクトもあれば、近日中に対応しなければいけないものもある。
自分の意図が仕事に反映されるのはありがたいし、面白い。
だが、キャパオーバーになってしまえば元も子もない。
その点は見誤らないようにしたいものだ。
そして、仕事のみならず自分の他の一面も大切にしていきたい。
主にアート的な部分で。
写真も再開したが、絵の方も再開したい。
フォトショの使い方などもほとんど忘れてしまったが、
肩の力を抜いてフレッシュな気持ちで筆をとってみようと思う。
相変わらずツイッタランドだなあという感じであった。
だが、トレンドなどを見ていると昔より荒廃している印象を受けた。
世相を表しているといえばそれまでだが、
ネットの海には優しさを携えて漕ぎ出したいものだ。
あまり長時間見ていると精神衛生上よろしくないので、ほどほどにしておくとしよう。
長時間のSNSは心のリストカットみたいだ。
死にはしないが、傷が増えていく。それでいてやめられないのだからたちが悪い。
ただ、そうはいっても広大なネットの海の一部であることには変わりがない。
たまにお宝が眠っている。人との縁や素敵なアートとの出会い、心惹かれる何かがある。
サーフィンだけでは飽き足らず、水底に光るものを求めて今日も人々は海に潜るのである。
例えば、朝起きたら必ずコーヒーを飲むとかそんなことだ。
習慣といったほうがわかりやすかったかもしれない。
ただ、「儀式」という大げさな書き方をしたのには理由がある。
最近気がついたのだが、習慣の中には日々繰り返すただの行為を超えて、
その日を占ったり、心理的な準備を整えたりする役割を持つものがある。
それらは「儀式」と呼ぶほうがしっくり来る。
私にとって、朝にコーヒーを飲む行為は一日の成果を決める大切な「儀式」だ。
飲めないときにはその日の調子が微妙に崩れてしまう。
科学的に見れば一日の調子と一杯のコーヒー、両者に因果関係は見当たらない。
これは日常の小さな神秘だ。
不思議なことだが、実際そうなるのだからどうしようもない。
私達はイベント事や旅などの非日常が人生を変えるきっかけになると思いがちだ。
しかし、こんな日常に潜む小さな不思議な力こそが、運命の舵なのかもしれない。
昨日の投稿で、心の内を言葉で表すことについて色々と書かせていただいた。
そして今日を迎えたわけだが、やはりいつもの週末に比べて、
心に突っかかりを感じなくなっている。
不思議なことに、書くというアウトプットを通して
更に何かを表現したいような気持ちが溢れてくる。
まるで、心の底にかぶせていた蓋を開けたような感じだ。
もしかしたら、昔挫折してしまった他の趣味も再開するかもしれない。
その時はこのブログで告知させてもらおうと思う。
「ずっとやりたかったことを、やりなさい。」(ジュリア・キャメロン著)という本がある。
ベストセラーなのでご存じの方も多いのではないだろうか。
そこで「モーニングノート」 という手法が紹介されている。
毎朝起きたら3ページ分、自分の心の声をノートに書き出す。
シンプルだが、 アーティストとしての創造性を取り戻すには効果てきめんらしい。
このブログは「モーニング」には遅すぎるが、
同じような影響を自分に与えてくれているのだろう。
再開することを思いついた一週間前の自分に感謝したい。
ありがとう。
みなさんは休日をどんなふうにお過ごしだろうか。
旅行にレジャー、外食、買い物、はたまた自宅でゆっくり派の方も居ると思う。
自分はと言うと、家で過ごすことが圧倒的に多い。
インドア派閥である。
たまにバイクで遠出するが、頻度はそれほど多くはない。
そこで最近の休日を振り返ってみると、ちと改善したいポイントがある。
うまく気分を切り替えられないのだ。
土曜日の夜ぐらいまでは仕事のことが頭に残っている。
かといって自宅に作業を持ち込む訳にもいかないので、
身動きが取れずモヤモヤとした気分が続いてしまう。
今週はブログを書き始めて初めての休日なので、心境に変化があるか観察してみたい。
気持ちをアウトプットすると、なんとなく頭がスッキリすることがわかってきた。
文章を書くことを通して、考えを整理できているのかもしれない。
現状を打破するきっかけになればいいなと思う。
言語化能力と語彙力の充実がメンタルケアの面でポジティブに働くと聞いたことがある。
心の内を言葉で整理して感情を観察できる分、冷静に物事の対処できるとか。
なんだか仏教の教えのようだ。 八正道の正念が近いかな。
心のあり様をそのまま記すことが、自分を観察する瞑想になっている。
最近の科学と同じことを2500年も前に気がつくとは。
昔の人はすごいのであるなあ。
園芸品種の苗を買って庭に植えてみたのだが、残念がら定着しなかった。
近所ではよく見かけるので、土が合わなかったのかもしれない。
自宅の庭は山砂がベースで、水はけが良い。良すぎる。
毎年有機物をすき込んで入るのだが、なかなかふっくらとした土にならない。
根腐れの心配が薄いのはいいことだが、
風が強いことも相まって植物にとっては水分不足になりやすい。
庭造りは土作りと言うが、ここ数年で身にしみてわかってきた。
逆に土さえ出来ていれば手入れが適当でもそれなりに育つ。
そういうわけで、我が家の庭は乾燥を好むタイプの宿根草と相性がいいらしい。
放っておいても毎年立派な花を咲かせてくれる。
これは人間にも同じことが言えるのではないだろうか。
その人に合った場所に根を下ろすこと。それが幸福への近道なのかもしれない。
自分は結構飽きっぽい。
火がつくのも早いが、消えるのも早い。
同じことを繰り返し続けるのはどうも苦手だ。
だから四日目の今日、ブログが更新できたのは個人的になかなかの偉業である。
しかし長い目で振り返ってみると、
色々手を出してみたことが浅く広い知識として役に立っていたりもする。
飽き性も決して悪いことだけではないと思う。
それでいて、飽きたと思ったことでも数年後にもう一度やってみるとこれまた面白い。
同じ趣味で、始めたばかりのワクワク感を何回も楽しめる。
お得なのでは?
まあ、上達を求めたり、その道で生計を建てようとすると話は変わってくる。
気分が乗らなかろうが、ひたすら続けなくてはならない。大変だ。
自分は今まさにその課題にぶち当たっている。
個人的にやり遂げたいことがいくつかあるのだが、なかなか続かない。
三歩進んで一歩下がるどころか、時々四歩ぐらい下がっている気がする。
解決には長い時間がかかりそうだ。
同じような状況にある方がいたら、ぜひ一緒に悩んでいくとしましょう。
水を張ったばかりの水田が、夕日を受けてオレンジ色に輝いていた。
思わず車を停めてカメラを構える。
田舎育ちの自分には見慣れた光景だが、何度見てもきれいだと思う。
空を映す鏡のようなこの光景は、稲が育つと見れなくなってしまう。
まあ、青々とした田んぼもまた別の風情があるのでそれはそれで楽しみだ。
心の原風景。
私にとってはこの田舎味あふれる景色がふるさとだが、
都会の方は建物が並び立つ町並みが郷愁を感じる景色になるのだろうか。
そう考えると、なんとも不思議な感じがする。
趣味の写真を再開した。
放置していたこのブログもついでに更新をしてみる。
写真+その他色々といった感じで続けられればいいなと思う。
せっかく撮った写真もハードディスクに眠らせているだけではもったいない。
大して撮影の腕があるわけではないのだが、下手の横好きということでご容赦願いたい。
この季節は庭の植物たちが色んな表情を見せてくれる。
お陰で被写体には困らない。
一度軽い気持ちでカメラを持って庭に出るとあっという間に時間が過ぎてしまう。
写真はオダマキ。
数年前に別の場所に植えたものが、こぼれ種で増えたようだ。
緑にに覆われた木陰で、紫がかった花が控えめながらも美しく咲いていた。
バラやツツジのように、この時期を代表する華やかな花もきれいだが、
個人的にはこういった慎ましい日陰者たちにより心が惹かれる。
どこか自分自身のイメージと重なるところがあるのかもしれない。